アイデアの収納箱

心に浮かぶ「もやもや」を言語化したい

メリトクラシーに関する疑問のメモ

メリトクラシー(成績重視主義、能力主義などが訳語)に関する基本的な自分の考えを書きました。 思いついたことを雑に書き散らしました笑



いまの社会では「大学入試等の機会に、能力によって個人を選別した上で分業を行わせる」という形をとっている。これは個人の意志、興味関心を吟味しないという点で、望ましくない。

例えば、経済学部に入るためにはある程度の数学的知識はもちろん必要だ。さもなくば、入学後に授業についていけず退学・留年することは目に見えている。

だからと言って、数学を受験科目として受けさせるということは、「その人が経済学というものに興味があるのか」を全く判断材料としていない。強いて言えば「経済学に興味があって、それを大学でやるために数学を懸命に勉強した」という論理が成り立つなら、経済学に対する興味を選抜における判断材料として用いている。しかし、これは果たして全国の経済学部受験者の現状にも成り立つであろうか。他の学部についても同じことが言える。

複数の専門性の異なる学部を受験するということはよくある話だろう。このとき、大学・学部選択に用いるのが「偏差値」だ。社会が受験生に偏差値による大学選択を迫っている。事実、より偏差値の高い大学の方が、就職活動の面で有利だということはままあるし、学歴フィルターは未だに就職活動で作動しているともされる。学術・研究面でも偏差値のの高い大学の方が、優れていることもある。

高等教育の選抜過程における、「個人の興味と専攻内容の不一致」は、大学の定員数が固定化されている以上、やむを得ない。例えば、国立大学の経済学部を受験したが不合格となり、私立の経営学部に入学したというような例だ。本当は経済をやりたかったかもしれないが、経済をやることになってしまう。けれども、これでは明らかに能力による専門内容の決定、すなわち偏差値による受験生の選別が行われているといえよう。

このように偏差値によって引き起こされる、個人の興味と専攻内容の不一致の影響は大きい。

その弊害として、適材適所な社会的分業の達成に不要な「宙ぶらりん」の時期が学生に訪れる。つまり、社会的分業を目指す過程から学生が離れて、宙に浮いてしまうのである。学生が他者と差異のある価値、すなわち経済的利潤を生む価値を得るためには、一定の人的資本投資必要である(人的資本論)。たとえば、学業を優秀な成績で修めたり、インターンシップ・アルバイト・ボランティア・サークル活動をおこなうこと、などである。けれども、学生が自分の社会でのポジションを決めようと、勉学その他に励むことができず、社会へ出るモラトリアム期間として高校生以下の学生のように過ごしてしまう。これは個人の生涯の資産形成に対してマイナス働く。自分の興味と大学でやってることが一致しないようなことに不満を覚える人は多いだろう。個人レベルであれば、大学生の時期を謳歌するのは結構だし、個人の責任に帰着できるが、国家レベルでは問題となってくる。少し国家主義的だが、この社会的分業の失敗が世界経済における日本の競争不利にもつながってくるのである。

一言でいえば、「不一致」は「人的資本形成上のロス」となる。

それでは、この「不一致」を解消するためには、どうすればいいのか。

問題の根源は、大学生が中学・高校と義務教育システム下にいたときのように、経済的自立を強制する「社会」を未だ気付ていないことである。

通常、高卒の人であれば高校卒業前の就職活動時、大卒は大学卒業前の就職活動時に、初めて他の社会人と同じように「経済的自立の道」を認識する。経済的自立の必要に迫られながらも、やる気の出る興味関心にある仕事につくためには、人とは違った「強み」や「経歴」がなければならない。つまりは蓄積された人的資本によって、人は人材市場で好みの仕事を見つけることができる。人により時期の前後はあるだろうが、遅くともこの時点で、また身に染みて、これらのことを実感するだろう。しかし、その時点では人材市場で競争優位を生むための人的資本形成は間に合わない。

ところで、人はうやむやであれ無いよりは目標があった方が、心もモチベートされて、物事に励むことができよう。つまりは、早いうちから目標となる「経済的自立の道」を認識することが、早期の人的資本蓄積へとつながる。これが人材市場における競争者優位の源泉となるのである(シグナリング理論)。よって、「経済的自立の道」の認識が少しずつでも早く行えれば、早い時期からその「関心と専門の不一致」解消できるのである。



大学における「関心と専門の不一致」の解決策をいくつか提示してみる。

解決策
①大学に再入学・編入する ②入学直後の段階で、専門を変更できるシステムを大学が採用する ③高校生の段階から専門内容に対する理解を深める ④広義のリカレント教育すすめる

①日本でも再入学や仮面浪人をする人は多いし、専門学校から大学に編入するという制度は、割とありふれたことである。イギリスに留学していて、1年学部生をやってみて、合わなかったから学部を変えてやり直した人が周りに多くいた。ただ経済的に非効率であるため、これを支える仕組みのようなものがクローズアップされるべきだ。

②入学後に専門を自分で選択できる大学は多い。例えば、東京大学国際基督教大学は、入学後に制約はあるが文系理系の枠を越えて、専攻を決定できる点で特徴的だ。抜本的な専門変更はできないが、1つの学部で2、3のコースに分かれていることもよくある。 また、大学内で少人数ながらも転学部を認めている大学もある。しかし、転学部者の選考に、転出前の学部の成績で判断していては、転出後の学部におけるその人のパフォーマンスを図れるはずがない。

③これができれば文句は無いが、他にも教育カリキュラムが多いある高校において、これ以上カリキュラムを増やすのは難しいだろう。進路指導者の手腕に任されてしまうのだろうか。

④これは学位を取り直さなければならない、という観点では決して効率の良い解決策ではないが、日本以外の西洋諸国では増えているようにも感じられる。特に海外の大学院や日本でもMBAなどの専門職大学院においてよく見られる光景だが、学部を終えた人が、学部での専攻から切り替えて新たな学位を取得することを促す仕組みである。 海外で学位(日本語等)を取得した人が、日本に来て大学院、場合によっては学部に入学するということも見られる。

総括
教育を受ける期間の拡大無しに、効率よく「不一致」および「人的資本形成上のロス」を解消するためには、②と③を政策として進めていくのが適切だろう。①と④は教育の期間を延長することで 、「不一致」を解消しようとする試みだ。

いずれにせよ、早い時期で「経済的自立の道」を見出し、適材適所の社会的分業に向けて個人をモチベートすることが必要だ。そうすれば、人的資本形成のためにやらなければならないことも見えてくるし、「宙ぶらりん」の状態で大学を過ごす時間も少なくなる。こう言ってしまうと、学生を苦役に追い込むようだが、人的資本形成とその他娯楽の両立も、同じようによって求められるはずだ。

これが能力による選抜ではなく、自分の興味関心による選抜——社会学的には適材適所のより効率的な社会的分業——へのつながるだろう。



P.S. 「結局、人生の選択肢が全部事前に分かっていた方が、やる気も上がるし、人生を決める決断を個人がするのが望ましいんじゃないか」と思って書きました。

あと「社会的分業」についてはちゃんとここでは定義していません。いちおうデュルケームの『社会分業論』における近代以後の「社会的分業」のつもりで書いたのですが、読んだ内容忘れてるしクソ。ここでは「社会的分業」=「適材適所」ぐらいのつもりでお読みください。